生けるアステリスクたち

屋根の上、瓦はぬるく足の裏を冷やす。生温かい空気が肺に沈み込む夏の夜。見上げずとも目に飛び込んでくる夜空を、僕は受け止めた。受け止めきれなかった夜は、首を回して捕まえた。

駆け足の雲が月に追いついた。太陽の沈んだ世界は色彩を奪われ、わずかな陰影を月からもらっていたのに……ますます漆黒は濃くなる。田んぼの稲が左から右へ倒れていく。青葉の裏側は、日に当たらないからぼんやりと白い。ここから見ていると、地が痛みでのたうちまわっているようにも見えた。雲は、月明かり纏って、ピンクになったり黄色になったり、薄い鼠色になったり、めぐるましく表情を変えながら、ベールのようにたなびいている。

ふいに、視界の右側がぱあっと明るくなった。隣の家の電気がついたのだ。人影がうごくのが窓越しに見える。こんな時間にこんなところにいるのを見つかるのは嫌だ。僕は首を縮こまらせた。隣の家の屋根に飛び移れそうだ。水の流れる音がかすかに聞こえた。ズゴゴ、と何かが吸い込まれて、電気が消えた。

僕は瓦の波を掻き分け掻き分け、屋根のふちまでそろそろとあるいていった。

げろ、げろ、げろげろげろ……蛙の鳴き声が、あとを追うように増えていく。それらに背中を押されるようにして、僕は波をけった。ふわりと体が浮いて、生ぬるく湿った空気がほほを撫でる。とん、大した音も立てず、かろやかに着地。まぁべつにこんなの初めてじゃない。こないだなんて忍者みたく、屋根から屋根を飛び回った。

ちりん、鈴が鳴って、暗闇の中にふたつ火の玉が浮かんだ。いいやあれは目だ、猫の目。僕に気付いたそいつは驚いたように毛を逆立て、隣の屋根に飛んだ。僕も飛ぶ。猫は走る。追いかける。逃げる……ちりちりちり……猫が動くたびに鈴の音が夜空に響いた。鈴の音は星に吸い込まれて、幾億の星はかわりに何光年もかけて光を送ってきた。漆黒を裂いて、いくつものきらめきが生まれる。雨が降ってきた。大きい粒が少しずつ降ってくる。やさしい雨だった。

僕は目を閉じ、口を大きく開けて、空を仰ぐ。そうして、星の光を含んだ雨を、舌を出して迎えた。まろやかな星の光が喉にしみる。胃のあたりがしゅうしゅうする。いい加減口を開けっ放しにしているのも疲れてきたころ、僕の体がぴかりと光った。光は僕の鼓動に合わせてどくり、どくり、弱くなったり強くなったりした。

向こうから、真っ赤な傘が歩いてきた。暗闇の中、その色が分かったのは、その傘も発光していたからだ。ウサギの耳を透かして見える血管みたいな色を、その傘はしていた。僕はひとつ、大きく息を吸ってから、下に飛び降りた。湿った土が、はだしの足にくっついてきたけど、そんなことは気にしないで、傘のほうに歩いて行った。僕が「こんばんは」と話しかけると、傘は水たまりに落ちた。

かわりに、女の人が一人、そこにいた。彼女は夜風に靡く黒髪をかき揚げながら、「返して」とつぶやいた。

「何をだよ」

女は笑った。

「あなた、中身がないのね」

雨を浴びたからだろうか、僕の体は透明だった。

透明な僕は、何も言わずにポケットを探って、チョコレートを彼女に渡した。用意していたのではない。たまたま入っていた。突き返されるかと思ったけれど、意外にも彼女はチョコレートを受け取って、食べるでもなく捨てるでもなく、ただ弄んでいる。

「じゃ、私、散歩の途中だから」

彼女は、赤い傘を振り回しながら遠ざかって行った。

 

それから何日か過ぎて、僕はまた彼女に出会ってしまった。市立図書館の哲学コーナーに、彼女はいた。今日は長い黒髪を後ろで一つにくくっている。

「あ、君」

「こないだはどうも」

あんな普通でない夜を過ごしたというのに、いたって普通の挨拶は倒錯している。特に話題もない。所在なく僕は本の背表紙をなぞる。唐突に彼女が、

「あのさ、ごめんね」

と一歩近づいた。こつん、とヒールの音が響いて、もともと高い背丈がさらに高くなっている。

「実はあの時貰ったチョコ、後で食べようと思ってポケットに入れておいたら、溶けちゃったの。でろでろに。それでなんか気が乗らなくて、捨てちゃった」

素直はいいことだけれど、純真などないことを僕は知っている。わざらしい嫌味を演出するため、彼女に向けて溜め息をついた。

それに、でろでろなのはチョコじゃない。僕や彼女の魂だ。体から抜けてばっかりの僕らは、さまよい歩きすぎて、目の下に隈を携えている。それは彼女だって同じことだ。せっかくの美人なのに、幽鬼のような凄味が出て、目玉ばかり鋭い。どんよりした彼女の雰囲気の中、瞳だけが眩い。

「飲食禁止だから、外で食べてよ」

僕はそう忠告しながら、キャンディを渡す。わかった、と言いながらもう彼女は包み紙を破いている。右頬が膨らんで、カラ、と音がして、左頬が丸く出っ張った。甘い香りを発する彼女は本を開いて、別の世界に旅立つ。僕は貸出手続きのため、カウンターへ向かう。

僕らは他人だった。

夜にはまた唯一の輝きで、それぞれ闇を泳ぐのだろう。

 

 

 

暁の頃には地球を出ます

 明日の朝にはもう出発します。

時計の針が二十三時すぎを指しています。今はまだ今日ですから、あなたがこれを読むのが明日であっても、ここでの基準は「今日」です。

明日の朝、あなたが枕から顔を起こして、カーテンを開けて、眩しさに目を細める。その瞬間の表情を、私は見られません。あなたもそうです。私におはようができないのです。実際、そうでしょう?歯磨きと洗顔はきちんとして、朝ごはんもしっかり食べてくださいね。用意しておきましたから。  

挨拶もなしにいきなりのことで悪いとは思いますが、これを書いただけましと思ってください。

 それだけ残して家を出た。

東の山が欠伸をするのと同時に靴を履き、朝焼けが始まる瞬間に玄関の外へ足を置いた。そこからどんどん歩いて行った。ありったけの夢、ではなく、ありったけの金目の物をくすねてきたから、懐は温かい。夢の方は、なけなしの夢しか持ち合わせていないので、心はやや寂しい。

まだ薄暗いうちだというのに、ウォーキングに励むご老人や、新聞配達の自転車、仕事へ向かう車なんかとすれ違う。冷たい朝の空気、寝起きの静けさを裂いて、一日が動き始めている。私はそう思った。夜になって動きの鈍った歯車に、太陽という油が射される。そして私もきっと、歯車の一部だった。

 私は駅に向かっていた。駅前の商店街に差し掛かる。やかましい細い声が、おはようと叫んでいた。時計塔の時計盤のふちに、小鳥が三匹ほど止まっている。私が近づくと、挨拶もそこそこに、全部どこかへ飛んで行った。

 「おはよう」

 振り返ると、箒を持った老人が、私に微笑んでいた。まったく、年寄りは早起きが過ぎる。生き急いでいる風もなし、では死に急いでいるのだろうか。

「おはようございます」

「お嬢ちゃん、旅行かい?随分と大きな荷物だ」

「まあ、そのようなものです」

もうお嬢ちゃんと呼ばれる歳でもないのに。長く生きる人からは、おばさんもお姉さんもお嬢さんも同じなのだろうか。すると違うところは、美人かブスか。世の中とは非情なものである。

老人の後ろには看板がかかっていた。どうやら古書店のようだ。店先には雑誌や文庫本、年代物のおもちゃやガラクタみたいな壺や絵が所狭しと飾ってある。個人のコレクションにも見える。売りたいのか売りたくないのかわからない陳列だ。

店を覗き込んでいると、老人が笑みを深くして、扉を開けてくれた。

「見ていきますか?」

「いいんですか。開店時間はまだ……」

「大丈夫大丈夫。いつでも開いてるようなモンだから」

老人の後に続いて店内に入る。ツンと、古い紙の匂いが鼻につく。床に積み上げられた本の山、天井まで届く本棚。通路を構成するのも本であれば、壁を作っているのも本である。

大まかなジャンルに分けられ、さらに細かく出版社、著作者別に整列する本。表紙、ページ、活字、それらすべてがこの空間を構成している。この古本屋がひとつの生き物だとしたら、本は年季の入った細胞だ。私はその体に入り込んだ菌だった。文字と紙と、そこに込められた人間たちの結晶。朝食代わりにするには重い。

「旅行のお供にいかがです」

「では、お供を探してきます」

本の山に入る。いま地震が来たら死ぬな、と思った。本に潰されてお陀仏。苦しいのだろうか。

  旅行といっても、私は当分、家に帰るつもりはなかった。しばらくは気分のままに、適当に電車に乗って、新幹線に乗って、飛行機に乗って、適当な場所に行くのだ。それがどこかは知らない。旅行であり、家出である。家出であり、脱出であった。

荷物が増えてはいけないから、文庫本だけに絞って選んだ。レジへ向かうと、老人が模型を磨いていた。古びた布から見え隠れするのは、電車である。少し色の褪せたジオラマ模型は、片手で掴める大きさで、まるで子供のおもちゃみたいだった。乗客もいなければ、運転手もいない。四角いカウンターに、レールが敷かれている。レジの右側から始まって、お客側を通って、本棚へ移行、後ろの棚へ。そこから出入り用の開閉版の上、を通って、レジの左側へ。   老人は、模型のレールにぐるりと囲まれるようにして、その輪っかの中央に座っていた。

皺だらけでシミの浮いた手が、青い車体が横たえた。

「これねえ、寝台特急鉄道模型。ほら、そこの駅にも停まるやつ」

「ああ、『はやかぜ』ですか」

「ふむ、そんな名前だったかね」

 節くれだって使い込まれた指が、電源装置のレバーを引いた。途端に力んだ電車が、息をするように唸る。ゆっくりと車輪を回して、徐々に速度を上げてゆく。レールに沿って、つなぎ目をくねらせる。橋の上で、汽笛を響かせる。軋むほど静謐な動きは私を安心させ、痛々しいほど小さな車体は私に万能感を与える。気づけば私の手は勝手に拍手していた。

鉄道模型、お好きなんですか」

「これはNゲージという標準的なサイズで、ネットでも出回っとる。マニアが目の色変えて大金を注ぎ込むような、そんな価値のある模型じゃあ、ございやせんよぅ」

同じコースを当てもなく回り続ける列車に、憐れむような視線が投げられる。しかしすぐに悪戯っぽい微笑みが広がって、口元の皺を深くした。

「でもな、うちの『はやかぜ』は違う」

 身を乗り出した私に、老人は少年のような瞳を輝かせた。

 「切符は少々値が張るが、乗ってみるかい? 」

  

 

 列車は午前六時発。停車駅はそのときそれぞれで、降りたい時に降りられるし、乗りたい時に乗れる。指定席の寝台つき、トイレも車内販売もある。駅はさまざまで、「備中高松駅」の次が「Grand Central Station」であることもあれば、駅は「無名」としか表示されていないということもあるらしい。あてはなく、果てもない。終点まで行って帰ってきた人がいないから、最後の駅がどこなのかは本人にしか知りようがない。と老人は説明した。

 「気に入ったなら、この鉄道模型を買うといい。車内販売で売ってるから」

 本を入れた白いビニールの袋と一緒に、切符を渡された。レジの奥のドアから出るよう促される。

「ありがとうございました」

「いってらっしゃい。またおいでね」

 ドアを開け店を出る。湿った裏通りを想像していた私は、思わず声を上げた。

 そこは駅のホームだった。電光掲示板を見上げると、六時出発の文字が点滅している。腕時計を見た。五時五十八分。急いで青い車体を探す。開閉ボタンを押して飛び乗った瞬間、アナウンスが流れた。

『六時発、寝台列車「はやかぜ」、まもなく発車致します。えーこの列車は○○駅を出発し、そこから適当な駅に留まります。列車の気分しだい、終点はございません』

電車はすぐに動き始めた。酷い揺れだった。席に荷物を置いて、私はすぐに寝台に横になった。ここまで乗り物酔いするのは、子供のころ以来だ。

電車はまるで、胎動するように動いている。その度にお腹の底が収縮して、胃液がぐっちゃぐっちゃと波になっている気がした。目を瞑って、酔った腹を撫でる。そうしていると、指と腹の境目がなくなった。肘のところまでずぶずぶと、臍のあたりに沈んでいく。細胞の壁が消えるのがわかる。私はついに、卵の黄身みたいな、一個の細胞になってしまった。

まるでゼリーのような体のくせして、眠気が襲ってくる。早起きしたのだ、少しくらい寝てもいい。

どろどろのぐずぐずに溶けてしまった私をシェイクしながら、列車は軋む。ミルクを振り続ければバターになる。起きた時には、新しい私がいるだろう。

 

 目を覚ますと、私は黄身でもゼリーでもバターでもなかった。窓の外を見ると、景色がすごい速さで流れていくから驚いた。人の気配を感じて、隣の寝台を伺う。鼈甲の眼鏡をかけた女性が、こちらを見ている。

「おはよう」

「おはようございます」

妙齢のその人は、親切にも、

「今ね、ごめんなさい駅に停まって、走り出したところ。次はありがとう駅ですって」

と教えてくれた。寝起きの目をこすりながら、私は「はあ、そうですか」と気の抜けた返事をした。   

失礼だったと慌てて居住まいを正し、髪を手櫛で撫でつける。振り子のような列車が、がごんと揺れてリュックが倒れる。

「優しい名前の駅ですね」

「そうでしょ」

そう微笑んで、おばさんは勝手に話を始める。

他にもね、いろんな駅があったのよ。私が乗った駅は……あれ?どこだったっけ、まあいいわ、また思い出すでしょ。「人生における青春」駅とか、「一攫千金」駅とか。「ローファーの靴底」駅、「愛憎」駅、「Calorie Off」 Station、「相対性理論」駅……「駅名募集中」なんてのもあったわ。「私が気に入ったのはね、「トマトのヘタのふち」駅。ホームの天井が丸くて、一個のトマトみたいになってるの。トマト柄の電車もみたわ。

私ね、駅の清掃員さんを見るとほっとするの。決まった時間に決まった場所を掃除してるの。電車が停まる数分間で、車内の塵をさらう。乗客が吐いたため息を拭いてゆく。ホワイトとミントグリーンの制服。サンタクロースみたいな白い大きな袋。青い手袋、くたっと柔らかなモップ。ちりとりあるでしょ、あれにはね、名前が書いてあるの。清掃員さんひとりひとりに、それぞれ用意されてるのね。

通行人の隙間をぬって床を磨いて、トイレも、エレベーターも、人が見てないところまで。電車が出ていくときにはお辞儀までするのよ。すごいと思うわ。あたしも最初は、仕事だものね、と思っていたのだけれど、きっとあの人たちの心はどんなにか綺麗でしょう。

想像では、地下に大きな秘密の部屋があって、そこが清掃員さんの休憩所なの。全員が入るには狭くて、窓もないから薄暗いんだけど、不思議と整っている。淡々と働く姿は螺子巻き人形みたいだわね。本当によく働くなあと感心しながらあたし、電車に乗るの。

私はそこまで聞いて、よく喋るなあと感心しながら、倒れていたリュックを起こそうとした。よいしょ、と体をかがめる。ふいに目の前の左手の薬指が光る。

シンプルな銀のリング。しっとりとした手にそれはよくなじんでいて、私は思わず目を細める。

 私の視線を辿ったおばさんがはにかんだ。

「つい先月結婚したのよ。式は挙げなかったけど、これでじゅうぶん」

「それは、おめでとうございます」

何日か前の憂鬱を思い出した。

あの人は私に「生まれ変わっても君を選ぶよ」と言って優しそうに微笑んだ。普段は気が弱いくせに、こういうときだけ傲慢だから、私はそれが嫌いだった。なぜだか、妙に苛ついた。勝手に口が動いていた。

例えば、だけど、ね。例えば、だよ。「あなた」が蟻に生まれ変わって家に入ってきたら私は迷いなく「あなた」の腹を潰して、よたよた腹を引きずって歩くあなたを眺めて暇を潰す。それでコップのお茶をすこしずつ「あなた」に注ぐ。海に溺れる「あなた」に飽きたら頭もぷちっと潰す。生まれ変わった「あなた」に私は気づかない。それでも来てくれるの? と。「必ず迎えに行くよ」と貫き通してくれたなら、まだ我慢できたかもしれない。しかしあの人は、「さっきのはモノのたとえ。言葉の綾だよ。生まれ変わりだなんて、そんなの本気にしてるの? 」呆れたように微笑んで、弱い生き物を見る目で私を見た。

「結婚するとき、離婚することとかは考えないんですか」

我ながらなんて失礼なのだろう。おばさんは気にした風もなく、

「始まりほど終わりを思わせるものはないでしょう。でも、今のところは……多分、ずっと一緒にいるような気がする」

と窓に手を這わせた。

「あなたはどうなの? 」

朗らかな口調からは、さほど興味もなく、ただなんとなく聞いただけなのだとうかがえる。私はじいっと、カーテンのマーブル模様を指でなぞった。窓に額をくっつけて、下を見る。流れていく茶色のレールは、チョコレートフォンデュみたいにつるつるしている。おばさんは同じように額をくっつけて、反対に上を見上げる。舌が縺れそうなほどゆっくりと、私に問うた。

「恋は? 」

「解りません」

「愛は? 」

「嫌いですが解る気はします」

彼女は額を、流れる景色からはがす。鼈甲の色が陽に照らされて、美しい。眼鏡をかけている彼女も美しい。

「まだ出逢ってないのね」

ふ、と零れた笑みの端が流れて、車窓に溶けて往った。そうか、私はまだ出逢っていないのか。妙に納得してしまう。また、がたんと車体が揺れる。

そのとき、後ろから若い男の声が私に呼びかけた。

「切符を拝見」

一瞬、切符を失くしたかと焦った。ポケットを探ると尖った角が指にあたる。ほっとした。薄いオレンジの台紙で作られた切符。おとなしく差し出すと、紺の帽子を被った駅員さんが、ぱちりと切符を切った。

「ご乗車ありがとうございます」

手元に帰ってきた切符は、端っこの真ん中にまあるい穴が開いている。その丸を指で撫でる。丸の大きさだけ除く、指の腹。指紋が渦を巻いている。切符をひっくり返すと、裏面の黒地に、私の模様がくっきり映っていた。

「ビールにお茶~、名物饅頭、ご当地駅弁はいかがですか~」

振り返ると、添乗員の制服を着た若い女性が、カートを押してこちらに歩いてくるところだった。ひっつめにまとめた黒髪、化粧で白い肌、ぱちりと聡明そうな瞳。眩しさに思わず目を細めた。すみません、と呼びとめる。

鉄道模型ありますか」

寝台列車『はやかぜ』の模型ですね。こちら限定品となり少々お高いですが……」

「結構です」

私は鞄に手を伸ばした。

「おいくらですか」

「―――になります」

上手く聞き取れない。もう一度聞いた。

「―――になります」

 どうやら別の国の、あるいは別の世界の単位らしかった。諭吉さんを出したけど、添乗員さんはただ微笑むだけで受け取ってくれない。私は困って、財布を片手に固まる。日本のお金じゃ買えないんだろうか。カードならいけるかも。どうしよう、払えないくらい高かったら。

 おばさんも添乗員さんも、にこにこと微笑んだまま私を見守っている。せっかくの旅なのに、今更、値段を聞き直すのも野暮だ。この際、出し惜しみなどするまい。長年使ってぼろぼろの財布を、鞄に戻した。

代わりに、網棚に置いていたキャリーバックを降ろす。ダイヤルを回して、鍵を開ける。ファスナーを降ろすと、ジジジ、と小さな抵抗が音を立てた。

「これで足りますかね」

中には、あの人からもらったプレゼントだったものが入っていた。あの人は私に、指輪だとかネックレスだとかピアスだとかをよく与えた。

「自分の選んだものが好きな人を彩るなんて、素敵じゃないか。ましてピアスなんてどうだ。柔な耳たぶ、その肉に、僕のあげた金属が、僕の想いが刺さるんだ。考えただけでたまらないね」

わからなくもない。あれはきっと、一種の束縛だった。

宝石類なら、その価値はどこでも共通なのではないか。私の思惑はどんぴしゃだった。添乗員さんは頷いて、金銀の鎖、ぴかり光る宝石を私から受け取った。惜しい気もしたが、今の私にはどれも必要のないものだ。

添乗員さんが箱を渡してくれた。透明なケースのなかには、青い電車が閉じ込められている。神妙にそれを受け取った私は、恐る恐る抱き締めてみた。ぶわりと肌が、泡立つ。

「お買い上げありがとうございました」

同時に列車が止まった。少し長く停車するという内容のアナウンスが流れる。ここらへんで降りよう。

隣の席のおばさんにお礼を言う。彼女は朗らかな笑みとともに、手を振ってくれた。

青い電車の模型を持った私は、模型にそっくりな電車から降りた。

瞬間、頬に風が吹き付けた。車内の暖房で温められた肌に、外の空気はあまりに冷たすぎる。

ホームには人が少なかった。みんな、輪郭がぼやけている。ここはそういう駅のようだった。

輪郭を保てない、というのは、自分があやふやな存在になるのと同義だ。「何ものでもない自分」。背筋に震えが走った。世界と溶け合ってしまって、自由でもある気がする。

私はそこで、見つけてしまった。

陰気くさいホームの中、一部だけに輪郭があるのだ。ダストボックスのところに、清掃員さんがいる。輪郭、というか、全身に光が漲っている。特大のゴミ袋を広げる腕は、しっかりと意思を持っている。

私は自分の手のひらを見た。ぼんやりしている。きっと輪郭など初めからなかったのだ。

キャリーバックを引きずりながら、清掃員さんの横を通り過ぎようとする。目があって、会釈された。見返りなど考えていない瞳。ただ人が通ったから、彼は挨拶したのだ。

私も会釈を返す。息が苦しくなって、そうするしかできなかったのだ。はじめて、確かなものを見た気がした。私は、なるべくそうっとため息を吐いて、黄色い線を辿る。地面には塵ひとつ落ちてはいない。点字ブロックの凹凸が、靴底越しに感じられた。

伏せた目を開ける。まつ毛が重い。「まだ何ものでもない」私の目に、暁の空が飛びこんできた。

処女作

 

おひさまのまんまるのおしりが、西の山とあいさつをしたころでした。

びんちゃんは目を覚ましました。そこはひろいお庭のようでした。花壇からは溢れんばかりに色とりどりの花が咲き誇り、芝生は青々と刈りそろえられ、ずっしりとして丈夫そうな幹をたどると、枝葉はさわやかに風を迎えていました。地面で息をひそめるれんがの石畳は、ひとつずつ僅かに色味が違っていて、チョコレートの詰め合わせみたいね、とびんちゃんは思いました。それらすべてを、西の空に傾く太陽が、夕焼け色に染め上げはじめていました。

びんちゃんはきょろきょろあたりを見回します。いつもいっしょにあそんでいるチカちゃんがいません。きっとわたしを驚かせようとどこかに隠れているんだわ。

「素敵なお庭ね」

びんちゃんはすっくと立ち上がり、赤と白のギンガムチェックのワンピースをはたいて意気揚々と歩き出しました。

「ちいさなあなた。そう、そこで飛び跳ねている可愛いあなたよ」

話しかけてきたのは、オレンジのポピーでした。

「わたし、びんちゃんよ。元気で綺麗なポピーさん」

「そう、あたしったら、綺麗なの」

スキップをしながら進んでいたびんちゃんは、そのオレンジのポピーを摘もうと手を伸ばしました。ポピーを髪飾りにしたら可愛いと思ったのです。けれども、ポピーの茎はなかなかに丈夫で、ちぎれません。「きゃあ、やめてよ」悲痛な声にも構わず、えいっと腕にちからをこめると、ポピーは根っこから引っこ抜けてしまいました。

「何をするのよ。あたし、今朝やっと花を開いたばっかりなのよ」

びんちゃんの手に握られたポピーの、紙細工のように薄い花弁のうち、二枚は地面に落ちていました。

「まだちょうちょさんにも美しいねって褒められてないのに。ひどい、あんまりだわ」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

恨みがましくひたひたとにらみつけてくる視線に、びんちゃんはこわくなってポピーをもといた場所に戻しました。土をかけてやると、すっかり無残な姿になったポピーがぐでんと頭を垂れてそこにいました。びんちゃんはもうそのポピーを綺麗だとは思いませんでした。罪悪感でいっぱいになってもう一度誤ると、堰を切ったようにポピーの泣き叫ぶ声がびんちゃんの耳をつんざいて、彼女を責めました。

「もとの姿に戻してよ。ねぇ、戻して」

びんちゃんは耳を塞ぎ、ポピーに背を向けて逃げるように走りだしました。

 

 

 

 

 

一心不乱に駆けてきたびんちゃんは、いつのまにか小道の真ん中に立っていました。ここにもチカちゃんはいませんでした。ぜぇはぁする息を整えようと深呼吸をすると、少し離れたところに、錆びたスコップが落ちていました。チカちゃんが持っていたスコップと、よく似ていました。

「かわいそうにこのスコップ、さきっちょが欠けちゃって捨てられたのね」

「なんだよなんだよ。ちびのくせに」

「ちびじゃないわ。わたし、びんちゃんよ」

「聞いてくんろ、びんちゃん。おいらはな、錆びて使い物にならねぇってんで、相棒に捨てられちまったんだ。いいや、あんなやつ、相棒なんかじゃないやい」

かなしそうにさみしそうに、スコップは赤茶になった体でせいいっぱい強がりました。

「ひどいひとだったのね」

そう言ってスコップを持ち上げたびんちゃんでしたが、いやはやどうにも、彼はもう使い物になる気はしませんでした。

「土を掘る最中にゃおいらのことなんてすっかり忘れてるんだ。それでいい。でもな、あいつがもっと丁寧に手入れしてくれりゃ、おいらはもっと長持ちするはずだったんだ」

びんちゃんは、かける言葉もわからなくて、ただじっと話をきいていました。みーんみんみんみ、、、一匹だけ鳴いていた蝉の声が途切れました。ぽとんと地球に引っ張られて落ちたその蝉は、地上に出てちょうど七日目でした。小さいながらも立派な翅のその蝉は、もう死ぬのだ、いつ死ぬんだ、そろそろか、いやまだ宙を飛んでいたい、といつだって悩み、木にしがみつき、力の限り鳴いていました。あんまりみんみん鳴きすぎたので、とうとう胸がつまって、死んでしまったのです。スコップを持ち直したびんちゃんは、木の下に穴を掘りました。びんちゃんの拳がひとつ入るくらいの大きさでした。だらしなくおなかを見せた蝉を、びんちゃんはスコップにそっと乗せ、それから、穴の中に置いてあげました。土をかぶせて、スコップをそばに置いて、びんちゃんは風の音を聞いていました。

「ありがとよ、びんちゃん」

口をつぐんだスコップは、それきりもう何も喋りかけてはきませんでした。びんちゃんは、また歩き出しました。食べ物を探していた働き蟻たちはがっかりして、触覚をふりふり、列を組んで草の影をたどっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

ヤドリギの枝を右手に持って、びんちゃんが一生懸命歩いていると、きらきらとなにかが輝いてみえました。近づくにつれちいさな池が、上流から流れ込む澄んだ水を溜め込んでいるのがわかりました。びんちゃんは思わず走っていき、わぁいと歓声をあげて水中に両手を浸しました。両手をお皿にして、ひんやりとしたお水をすくいあげます。

「君、どうしてここにきたんだい」

聞いたこともないさらさらした声に驚いたびんちゃんは顔をあげて、声の主をさがしました。

「ここだよここ、君の手のなかを見てごらん」

言われた通り自分の手のなかにじいっと目を凝らしますが、ぬるくなった水がぽたぽた落ちていくだけでした。

「なにもいないじゃない」

また、あの声が聞こえました。今度はなにがおかしいのか、大笑いしています。

「あっはっは。まさか、本当に信じるなんて」

「なによ、あなたが言ったんでしょ。どこにいるの」

「池の中を、よぅくみたまえよ」

水面は太陽のひかりを反射して眩しく、底は泥がたまって澱んでいます。目を細めていると、いくつもの波は揺れて寄せて、びんちゃんの足元で順番に砕け散りました。

「ひどいわ、あなたはだれなの」

「ひどいのは君のほうさ。僕に気づいてくれないし、ポピーは引っこ抜いちゃうし」

びんちゃんは青ざめて言いました。

「なんで知ってるの」

「さあね。そんなのどうでもいいじゃないか」

おざなりな返事とともに、あしもとの水面がくるくると揺れ、ぼうっとちいさい影が浮かびました。ひよこの足を間違えて首元につけたようなかたちをしたそれは、びんちゃんにむかってみじかい手を振ってみせました。心臓がぴょんと飛び跳ねて、びんちゃんはきゃぁと叫びました。

「逃げないでよ。せっかく暇つぶしの相手ができたんだから」

「暇つぶしの相手なんかじゃないわ、わたしはびんちゃんよ。あなたはなんなの」

びんちゃんがむっとしながら言うと、影はびんちゃんの倍くらいむっとした様子で、おててをじたばたさせました。

「いま、僕を見て気味悪いと思っただろ」

影はくるんと寝返りをうちました。おなかとくっついた顔のまんなかには、黒いおめめととんがったくちびるがあるばかりでした。

「僕はミジンコだよ」

「うそ。ミジンコが喋るわけがないわ」

そう叫んでからびんちゃんは、ポピーやスコップも喋っていたことを思い出しました。それにそれに、ちいさいうえにぼんやりしていたのでわかりませんでしたが、なるほどたしかに、影の形は顕微鏡で見たミジンコそのものです。

「僕が喋っちゃおかしいかい」

「普段は喋るどころか、小さすぎて見えないもの」

「君たちが言葉を使うように、ミジンコだって言葉を操る。君たちが考えているように、僕ら微生物だって考えているんだ」

「知らなかったわ。人間のように喋ればいいのに」

「喋るのだけは上手いにんげんとは違うんだ。自分たちがこの世界でいちばん優れてると思いこんでいるにんげんとはね」

びんちゃんは首を振っていいえと笑顔で答えました。びんちゃんは、憧れているくらい、なぜだか人間が大好きでした。

「そんないいところばかりじゃないのが、素敵よ」

「そのいいところばかりじゃないので、迷惑をこうむってるのはぼくらなんだけどね」

ざわざわと震えたミジンコは、駄々を捏ねるようにおおげさに身を縮めてみせました。そしてえへんと咳払いをして、ふしぎそうに言いました。

「それはそうと、なんで君がこんなところにいるんだい」

いくら考えてもびんちゃんにはわかりません。ぐらり、びんちゃんは眩暈に襲われました。ゆらゆらゆらり、ぐんにゃりぐらぐら、ごととん……

 

がたん、ごとん、がたんごごとん。

つぎにびんちゃんが目を覚ましたとき、そこはまっくら闇の中でした。はて、ここはどこだろう。体を動かそうとしましたが、なぜだか、ぴくりとも動きません。こわくてしゃくりあげそうになったとき、まぶたがゆっくりと開きました。やけに長いまつげが、目に入ってじくじくしました。暗闇のすみっこには、ちいさな蜘蛛が、巣を張っていました。

「もし、蜘蛛さんここはどこかしら」

「ここかい?ここはトラックの荷台のなかだよ」

びんちゃんは、なんでそんなところにいるのだろうと首を傾げたかったのですが、やはり首も固まったようになっていて、動くことはできませんでした。ここに来るまで、とても素敵で楽しいことをしていたような覚えがあります。思い出そうともしましたが、靄がかかったように記憶はあいまいでした。つうっと、糸をのばして顔の前までやってきた蜘蛛さんが、なあがい足をちょんとあわせて、言いました。

「かわいそうにね、お人形さん」

「わたし、お人形さんなんかじゃないわ。びんちゃんよ」

ようやくそこでびんちゃんは、自分の声がいつもの透き通った鈴の声でないことに気づきました。ひどくかすれたおばあさんのような声は、トラックの音に、いまにも掻き消されそうでした。

やがて、トラックはがくんと揺れて止まりました。キィィと音を立てて、荷台の扉が開かれました。

おひさまのまんまるのあたまのてっぺんが、隠れてしまったころでした。

 

 

最近のわたし

ここのところ、文章と向き合える時間がなかなか取れず、ブログもご無沙汰になってました。三月に入って自由な時間が少しだけ増えるので、見たこと聞いたこと思ったことを徒然なるままに書いていきます。

 

 

☆コーヒーと不眠

コーヒーのせいだった。おとといの夜はどんなに目を固くつむっても、何匹ひつじを数えても、眠れなかった。食後に濃いめのコーヒーを飲んだせいだ。いつもなら10時を過ぎれば襲ってくる眠気が、すっかり為りを潜めている。明日はテスト最終日で、だから私はなんとかして寝なければと布団にくるまった。目を閉じるが、どうしたことか、眠くない。寝返りを打ったり、天井の節をぼんやり見つめたり、外から聞こえる生き物の声に耳を澄ませたり、そんなことをしていると、いつの間にか時計の針は0時を回っていた。今日が昨日で、明日が今日になってしまった。やばい。寝なきゃ。寝れない。私は大抵、夜10時に寝て朝4時に起きる。4時から6時までは勉強。今は0時30だから、いつも通りに起きるなら寝られるのはあと3時間半しかない。3時間睡眠でテスト受けるとか、むり。依然、3時間だけ寝て学校に行ったら、もう1時間目から頭が痛くて痛くて、散々だったから。寝よう寝よう、寝なくちゃ、私は眠い、私は眠い。そう念じるごとに、どんどん目が冴えてくる。こんなに眠くないのに、外には月が出ていて、今は夜だなんて、おかしいと思った。いいや、おかしいのは私かも知れない。夜なのに、明日テストなのに寝れないとか。強迫観念と緊張のせいか、汗が噴き出していた。胃もしくしくしだして、吐き気がしてきた。寝られない自分が怖かった。朝が来るのが怖かった。暗闇さえもが、私を拒み、世界から弾き出そうとしている。たまらなく恐ろしくなって、電気をつけた。炬燵に入って、英語をやった。知らない言語だった。

英語って実は日本人の幻想で、本当はどこにも通じないのじゃないかしらん。英語も日本語もこの状況も、すべては私一人の妄想なのではないかしらん。私ったらほんとうは微生物の細胞で、その細胞の1個がたまたま分裂した瞬間のエネルギーで生まれた夢なのではないかしらん。要するに、私は一人きりだった。家の中にはもちろん家族がいて、朝が来ればおはようと言って、満員電車に乗って、友達と「全然勉強してねー」みたいな定型的コミュニケーションをとったとしても、たった一人だった。孤独ってこれかな。結構いいじゃん。静かで。時計の針が時間を刻む音と、父の鼾、妹の歯ぎしりだけが、明確に世界に木霊している。父はいつも鼾が酷い。怪獣の断末魔かよ、ってなくらい酷い。妹も歯ぎしりが酷い。アンタの歯は石臼かよ、ってなくらい酷い。寝言も酷くて、いきなり叫んでがばっと起き上ったり、誰かに怒鳴ったりしているようだ。頭の中で繰り広げられる一人芝居も、孤独そのものな気がする。本人たちは眉間に皺を寄せて、夢の中だというのにあまり幸せそうではない顔をしているけれど、その姿はどこか滑稽だ。笑っちゃう。私が思うに、ふたりとも、現実でのストレスが夢に現れるのだろうなあ。

私は夢をあまり見ない。見たとしても、イケメンと遊んでいるか、銃を撃ったりナイフで刺されたり、蟻地獄にのまれたり、あれ、結構バイオレンスだ。とにかく、私はある程度のストレスを発散する方法(書くこと、喋ること、つまり言葉である)を知っているので、あまりストレスを溜めこんだころがない。ところが、父と妹は、圧倒的に口数が少ないのだ。言葉と、言葉の使い方を知らないから。生きづらそうだなあとも思うけれど、夢から覚めた彼らは随分すっきりした顔で「ああ、よく寝た」と欠伸をするので、きっとあまり考えていないんだと思う。物事にいちいち気を取られることはないし、あったとしても熟考しない。あれ、生きやすそうじゃない。わかることは、私と彼らは違う人間で、家族であったとしてもそういうズレが生じるんだってこと。一日一回は、そのズレをウザったく思うのだけれど、こうして書いているとそのズレさえもがなんだかとても愛おしい(ああ、むり、愛おしいとか使うと寒気と吐き気がするぅ)ので不思議なものである。

一心不乱に手を動かしていると、時報が鳴った。英単語で埋め尽くされたプリントが部屋中に散らばっている。外がほんの少し、ほんの少しだけ、明るくなっている。結局、私が寝付いたのは朝の3時だった。

卒業

3月です。春です。
春と言えば別れの季節。今日は私の忘れられない、中学校の卒業式の話をします。

 

空はまるで、卒業の実感の湧かない私の心を映したようなぼんやりとしたくもりでした。三月といえど寒さはまだ残っており、まして鉄筋コンクリートの体育館、室内とはいえだいぶ冷えていました。めでたく卒業の日を迎えた3年生、最前列の席に座った私はどうにもお口が寂しいのでトローチを舐めながら、開式の辞を聞いていました。つまらなかった。ただひたすら早く終わればいいと思っていました。やがて校長先生が壇上に立ちました。長い。校長先生の話が長いのは全国共通、しかしあまりにも長すぎる。長い上に中身が薄い。校長先生の薄くなり始めた頭髪よりも薄い。先生は三年生との思い出を感慨なさげに並べた後、唐突に小説の朗読を始めました。ナサニエル・ホーソンの「大きな顔の石」です。

朗読が始まったあたりで、卒業生の間に、

「こ、こいつは…おそらく三年間で最も長い校長先生の話になるぞ…!」

という緊張が走りました。

もう正直言うと私、今すぐ椅子を蹴り飛ばしたかった。貴重な青春の、短い人生の時間を、こんな金閣の金箔よりも薄い話に費やしたくなかった。でも理性が勝って貧乏ゆすりしかできなかった。隣の人ごめん。私たぶんイライラしてすごい凶悪な顔してたと思う。それはもう、にらめっこしたら石の顔もまっさおになって崩れちゃうくらいにね。

先生はカンペをパラ…パラ…とめくりながら、淡々と読み進めていきました。

抑揚のないその朗読が、だんだんお経に聞こえてくる。

なんか校長先生の声も、心なしか疲れてかすれた投げやりな感じになってる。

後ろの席の子がふとぼやいた。「長いね…」。

村に政治家が来たあたりで私は睡魔に負けた。

夢うつつ、私の頭に浮かんでいたのは、モアイの群れでした。

 

次に出てきたのは、教育委員会のお偉いさんでした。

校長先生よりはましだったけど、話のネタに葛飾北斎を出してきました。エッ北斎って思いました。だって北斎ってアレでしょ、鉄棒ぬらぬらでしょ。富嶽三十六景がいかに世界的な評価を得ているかを語るお偉いさんを尻目に私の頭では蛸と海女が取っ組み合ってました。北斎の絵が好きだったので春画のことも知識としてあったのですが、はぁ…いくら多感な思春期だからってよりにもよって卒業式で、何が嬉しくて種族を超えた触手プレイのハイレベルな一枚を想像しちゃったんだろ…。

 

合唱「流れゆく雲を見つめて」。

その合図にハッして席を立ち、ステージに並びました。私は最前列のド真ん中。

保護者席を見てゾッとしました。私の「関わりたくない人間リスト」に入ってるモンペがずらりと並んで、我が子の晴れ舞台をカメラに収めんとギラギラしながら最前列陣取ってるんです。ヒエーッ、冷蔵庫開けたら中身の賞味期限過ぎてたときくらいのヒエーッですよ。でも頑張って歌ったんです。

練習のとき、流れゆく雲を見つめる私の瞳は虚ろでしたが、このときばかりは未来ある若者らしくキラキラした瞳で、爽やかに歌い上げることができたと思います。

 

そして卒業生の「旅立ちの日に」の合唱。

この時点で私は進路が決まっていなかったので、

「勇気を翼に込めて希望の風にのり~♪」っていう歌詞を口ずさみながら、

私だけのりそびれちゃうんじゃね、むしろ私ののった風、ちょっと反れちゃったんじゃね?休校を期待されたのに別の方向に走ってってボロクソ言われる台風並みに反れちゃったんじゃね?なんて思いながら、こっそりハンカチの準備をしていました。最後だと思うと、自然と声が出ました。♫飛びたとう~(飛び納豆!)なんて合いの手入れる暇もないくらい一生懸命やりました。卒業生たちには不思議に笑顔と一体感が溢れ、澄み渡る若い歌声は体育館いっぱいに響き、保護者や先生も涙を浮かべ…サビに入り最高潮の歌声はますます盛り上がりました。万感の思いを込め、最後の歌詞は噛みしめるように歌いました。ピアノの音がしっとりと合唱のあとをつなぎ、指揮の手がおろされ、体育館は一瞬だけ静まり返ったのち、割れるような拍手の渦に包まれました。

 

事件はそのとき起こった。

指揮の男子が台から降り、お辞儀をし、私たちは席へ戻る…はずだった。確かに先生からそういう指示を受けていた。練習でもみんなおとなしく席に帰ってた。

 

なのに、なのにどうしたことだろう。

周りを見渡しても、誰一人その場から動こうとしないではないか。

ちょっと!と私は隣の子にアイコンタクトしました。なんなら少しくらい小突いた。

なんで皆席に戻らないのよ!

隣の子は悪戯っぽく笑って、言ったのです。

 

「体を左右に揺らして!」

 

は?あっけにとられる私。

どこからともなく流れ始める音楽。

左右に揺れ始めるみんな。

含んだ笑いでわたしたちを見つめる担任。

驚いたように目を見張る後輩たち。

うん、びっくりしたよね、でも私が一番驚いてる。隣のクラスの学級委員長の子が、マイクをもって前に進み出てきました。にこにこ爽やかに微笑んで私に言います。

 

「曲に合わせて左右に体を揺らして!」

 

悪夢だと思った。悪い夢だと思いたかった。

周りのみんな、ゆらゆら揺れながらなにかを歌い始めた。学級委員長の子、ちょっと涙声で喋ってる。とりあえずなんとか皆と同じようにゆらゆら揺れてみた。よし、一応は同化できた。

学級委員長の話に聞き耳を立てる。サプライズファンキーモンキーベイビーズ、歌います。断片的に聞き取れたそのみっつで、私は状況を理解した。学級委員の人たちはどうやら先生たちにもに内緒のサプライズで、式当日にその場で歌を歌うことにしたらしい。

さすが私、見事な名推理。

そういえば、何日か前に手書きの歌詞がのった紙を配られて鞄にぐしゃっと入れて…今日持ってきた、はず。もちろん慌ててポケットを探った。

ない。紙って言ったって選挙に行こうっていう広告入りのティッシュしかない。

 

やばい…歌詞の紙…教室に置いてきた…。

 

周りをソッと伺うと、歌詞を見ながらではあるけれども、みんな感極まったような表情でありがとうありがとうと歌っている。

私もサビだけでもと、歌ってみようとしました。けど、歌えない、歌えるわけない。

 

だってわたし、この歌いま初めて聞いたんだもん、歌詞とかわかんないもん。

わかんないのに最前列のど真ん中。

どうしろっていうの。軽いパニック。

こんなに一生懸命口パクのしようとしたの、初めて。

それ以上に、疎外感がすごい。例えて言うなら、バスケでボールが回ってこないかんじ。移動教室、音楽だと思ってたら理科の実験だったみたいな。

きっとサプライズだから風のうわさのように、口づてで企画は広まったのだろう。基本的に私はあんまり人と話をしなかった。一年の時なんて、一日だけだったけど誰とも口を利かない日があったくらいだ。企画した学級委員長たちは一生懸命準備してくれたのだろうに、私が交流を面倒くさがったばかりに。ちょっとの申し訳なさと、最後までみんなとリア充っぽく盛り上がれなかったことに寂しさを感じました。

 

ちょっと今歌詞を調べてきましたので、参考までに一部抜粋で紹介しておきますね。

()の中は私の感想です。

 

 

ありがとう/FUNKY MONKEY BABYS

 

♫君にどうしても聞いておきたいことがあるんだ♪

(奇遇だね…私も聞きたいよ…どうしてあんなことが起きてしまったのかを…)

♪必死に叫んでいた歌声はどれだけ届いていましたか?♫

(サプライズの計画なら届いてたよ…そう…私以外の奴にはね…)

♫何も見えない暗闇の中で君の涙に気付けていたかな♪

(気付けてなかったよね…あの場で流した涙は私だけが知ってるの…でもそれでいい…あの場で「私この企画知らなかった」とか言って雰囲気ぶち壊すとかいくら私でもできなかったから…)

♪温かな君の笑顔にありがとう♫

(ごめん…それは追い詰められた私の、必死の作り笑いだ…)

♫ラララ…僕は忘れない ラララ…笑顔にありがとう♪

(頼む…忘れてくれ…それに感謝じゃない…私が欲しいのは…この孤独な疎外感への謝罪だよ…)

♪ラララ…僕は忘れない ラララ…君にありがとう♫

(忘れろって…言ってるだろ…うるせぇはよ終われ…もう…やめてくれ…)

 

ラララのとこだけ頑張りました。でも音は外れてました。

歌がラップになったあたりで、観念して歌詞は諦めて、終わるまでずっとにこにこ笑って誤魔化しました。私、歌ってないけど、みんなの歌が聞きたいだけなんです、感極まって歌えないのです、みたいな雰囲気を醸し出すことに全力を注ぎました。

 

ふと保護者席を見ると母がいた。

母は怒ったような目つきでこちらをじとりと見ていた。

冷や汗が私の背中を伝い、体が固まった。慌てて左右に揺れたけど、明らかにリズムもめちゃくちゃで皆と逆方向に揺れてたね。隣の子ちょっと不審そうにしてたよね。

歌はわかんないし、皆すっげえ盛り上がって楽しそう、感動の場面、中には涙してる子もいた。なのに、私だけなんだかロシアンルーレットでからし入り引き当てちゃったかんじ。サイクリングしてたら自転車パンクしちゃって、いいよみんなは先に行ってて…って言う間もなく誰にも気づかれずに取り残されちゃったかんじ。

 

もう泣きたかった。

 

私の頭の中では、白い光の中モアイが大空を流れ、それを見つめる蛸がありがとうありがとうと歌いながら、未来を信じて飛び立つ海女と別れてた。

だんだんおかしくなってきて、泣きたいの通り越して笑いが出ました。

 

 

 

 

ははは、卒業、おめでとう。わたし。