生けるアステリスクたち

屋根の上、瓦はぬるく足の裏を冷やす。生温かい空気が肺に沈み込む夏の夜。見上げずとも目に飛び込んでくる夜空を、僕は受け止めた。受け止めきれなかった夜は、首を回して捕まえた。

駆け足の雲が月に追いついた。太陽の沈んだ世界は色彩を奪われ、わずかな陰影を月からもらっていたのに……ますます漆黒は濃くなる。田んぼの稲が左から右へ倒れていく。青葉の裏側は、日に当たらないからぼんやりと白い。ここから見ていると、地が痛みでのたうちまわっているようにも見えた。雲は、月明かり纏って、ピンクになったり黄色になったり、薄い鼠色になったり、めぐるましく表情を変えながら、ベールのようにたなびいている。

ふいに、視界の右側がぱあっと明るくなった。隣の家の電気がついたのだ。人影がうごくのが窓越しに見える。こんな時間にこんなところにいるのを見つかるのは嫌だ。僕は首を縮こまらせた。隣の家の屋根に飛び移れそうだ。水の流れる音がかすかに聞こえた。ズゴゴ、と何かが吸い込まれて、電気が消えた。

僕は瓦の波を掻き分け掻き分け、屋根のふちまでそろそろとあるいていった。

げろ、げろ、げろげろげろ……蛙の鳴き声が、あとを追うように増えていく。それらに背中を押されるようにして、僕は波をけった。ふわりと体が浮いて、生ぬるく湿った空気がほほを撫でる。とん、大した音も立てず、かろやかに着地。まぁべつにこんなの初めてじゃない。こないだなんて忍者みたく、屋根から屋根を飛び回った。

ちりん、鈴が鳴って、暗闇の中にふたつ火の玉が浮かんだ。いいやあれは目だ、猫の目。僕に気付いたそいつは驚いたように毛を逆立て、隣の屋根に飛んだ。僕も飛ぶ。猫は走る。追いかける。逃げる……ちりちりちり……猫が動くたびに鈴の音が夜空に響いた。鈴の音は星に吸い込まれて、幾億の星はかわりに何光年もかけて光を送ってきた。漆黒を裂いて、いくつものきらめきが生まれる。雨が降ってきた。大きい粒が少しずつ降ってくる。やさしい雨だった。

僕は目を閉じ、口を大きく開けて、空を仰ぐ。そうして、星の光を含んだ雨を、舌を出して迎えた。まろやかな星の光が喉にしみる。胃のあたりがしゅうしゅうする。いい加減口を開けっ放しにしているのも疲れてきたころ、僕の体がぴかりと光った。光は僕の鼓動に合わせてどくり、どくり、弱くなったり強くなったりした。

向こうから、真っ赤な傘が歩いてきた。暗闇の中、その色が分かったのは、その傘も発光していたからだ。ウサギの耳を透かして見える血管みたいな色を、その傘はしていた。僕はひとつ、大きく息を吸ってから、下に飛び降りた。湿った土が、はだしの足にくっついてきたけど、そんなことは気にしないで、傘のほうに歩いて行った。僕が「こんばんは」と話しかけると、傘は水たまりに落ちた。

かわりに、女の人が一人、そこにいた。彼女は夜風に靡く黒髪をかき揚げながら、「返して」とつぶやいた。

「何をだよ」

女は笑った。

「あなた、中身がないのね」

雨を浴びたからだろうか、僕の体は透明だった。

透明な僕は、何も言わずにポケットを探って、チョコレートを彼女に渡した。用意していたのではない。たまたま入っていた。突き返されるかと思ったけれど、意外にも彼女はチョコレートを受け取って、食べるでもなく捨てるでもなく、ただ弄んでいる。

「じゃ、私、散歩の途中だから」

彼女は、赤い傘を振り回しながら遠ざかって行った。

 

それから何日か過ぎて、僕はまた彼女に出会ってしまった。市立図書館の哲学コーナーに、彼女はいた。今日は長い黒髪を後ろで一つにくくっている。

「あ、君」

「こないだはどうも」

あんな普通でない夜を過ごしたというのに、いたって普通の挨拶は倒錯している。特に話題もない。所在なく僕は本の背表紙をなぞる。唐突に彼女が、

「あのさ、ごめんね」

と一歩近づいた。こつん、とヒールの音が響いて、もともと高い背丈がさらに高くなっている。

「実はあの時貰ったチョコ、後で食べようと思ってポケットに入れておいたら、溶けちゃったの。でろでろに。それでなんか気が乗らなくて、捨てちゃった」

素直はいいことだけれど、純真などないことを僕は知っている。わざらしい嫌味を演出するため、彼女に向けて溜め息をついた。

それに、でろでろなのはチョコじゃない。僕や彼女の魂だ。体から抜けてばっかりの僕らは、さまよい歩きすぎて、目の下に隈を携えている。それは彼女だって同じことだ。せっかくの美人なのに、幽鬼のような凄味が出て、目玉ばかり鋭い。どんよりした彼女の雰囲気の中、瞳だけが眩い。

「飲食禁止だから、外で食べてよ」

僕はそう忠告しながら、キャンディを渡す。わかった、と言いながらもう彼女は包み紙を破いている。右頬が膨らんで、カラ、と音がして、左頬が丸く出っ張った。甘い香りを発する彼女は本を開いて、別の世界に旅立つ。僕は貸出手続きのため、カウンターへ向かう。

僕らは他人だった。

夜にはまた唯一の輝きで、それぞれ闇を泳ぐのだろう。