鏡と悪魔

鏡と悪魔

 

鏡を上にしたまま置いておくと、夜の間に悪魔が鏡に入り込むんだって、という話を聞いた。何も特筆すべきことがない今日の中で、そのいかにも都市伝説らしい話は、よりいっそう怪しさを纏っていた。

二十何回目のスヌーズで起きて、六時四十六分の電車に乗って、八時に仕事場につく。持参の水筒のお茶を飲んで一息ついたら、仕事が始まる。画面に向かってキーボードを叩き続ける。一時間もすると肩が重くなってきて、二時間すると目がしぱしぱしてくる。三時間経つと腰が痛い。途中掛かってくる電話に作業を中断させられ苛々しながら、それでも手を動かす。すると十二時の鐘が鳴るから昼休みが始まる。お弁当を食べて、お菓子を食べて、同僚とお喋りする。それにある程度切りがついたらネットサーフィン。休み時間も結局それで、ブルーライトかなんか、よくないものに侵されている。

昼休みが終わるころには上司が机に向かって眉間に皺を寄せ始めるから、嫌々ながら私も作業を再開する。開いたままのツイッターを眺めつつ進めていたが、もうすぐでこの案件は片付きそうだ。

「ねえ君」

君、って。上司の視線を確認して、私は心中で舌打ちする。どうやら私をご指名らしい。この上司はいつだって偉そうで嫌味で、絶対に自分の席から動かない。今回も私を呼びつけたっきり、マウスを必要以上にカチカチカチカチ、貧乏ゆすりもガタガタガタガタ、うざったいったらありゃしない。

「はい」とおとなしく返事をして、私はしずしずと上司のデスクまで歩いた。

「この書類ね、ハンコ押して先方に送っといて。あとこの集計も。ちゃんと計算ミスのないようにね」

知るかよ。そんなの手前の仕事だろうが。自分でやれや。

そう叫んで禿げ頭に資料をたたきつけたいのを、必死で抑える。

「わかりました」

せっかく仕事が落ち着いたと思ったらこれだ。今日は定時で上がるの無理そうだな、と腕時計を覗き込んで溜息をついた。

あたりが真っ暗になったくらいで仕事場を出る。残業のせいで、倍は疲れた。重い体を引きずって、行きとは逆の道をたどって帰る。電車の音も、乗客たちの呼吸音も、すべてが煩わしい。何も聞きたくなくて、一人になりたくて、ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んだ。ラジオに設定して周波数を合わせようとしたけれど、AMしか入らない。もう何でもいいやと思った。適当な局で止めて、音量をなるべく上げて、目を閉じる。

何者でもない私が溶けてゆくようだ。

『私ね、子供のころ母に「鏡を上にしたまま置いたらダメ」って言われたんですよ。母曰く「夜の間に悪魔が鏡に入り込むから」って。子供のころだからそれを信じたんですね。鏡ってもともと怪しい力がありません? そっくりな姿を映すのも、鏡の向こうに別の世界があるからじゃないか……とか、子供心に想像をめぐらせてました。鏡文字とか、合わせ鏡とか、もうそれだけで十分に魔力がありそう。そこに来て母の話。悪魔ですよ! 悪魔! 以来妙に鏡が怖くなっちゃいまして、だから私は、手鏡とか姿見でもなんでも、使った後は鏡を下にして置くか、覆いをかけておくんです。』

悪魔。悪魔がのりうつった鏡。隈と肌荒れで酷い顔が映ったうちの鏡と、大差ない恐ろしさだ。

ラジオのパーソナリティはそこで一息ついて、「今週は、皆さんの周りの、あまり知られていない都市伝説を募集します」

目を開けると、真っ黒な車窓が飛び込んでくる。灯りがみるみる近づいては遠ざかっていく。流れ星みたいだ。動いているのは電車だから、電燈ではなくて電車が、それに乗っている私の方が流れ星なのかもしれない。

「いま、どの辺にいるんだろう」

真っ暗な帳の降りた町は、まるで知らない景色だったし、ラジオを聴いていたから車内アナウンスは耳に入っていなかった。やがて電車が停まって、イヤホンを外すと、ちょうど降りるべき駅だった。 

家に帰って、テレビをつける。急に寂しくなって、ご飯を作る気力もなくて、とりあえず制服を脱ぎ捨てた。翌朝しわになって困るのがわかっていながら、私の足は無造作にスカートを蹴り上げ、ベストを踏んづけてベッドに向かっていた。ブラウスのボタンに手をかけながら、シャワーもご飯も洗濯も、明日の朝でいいやと頭の中から追い出す。そこではっと気が付いて、メイクを落とそうと洗面所まで体を引きずった。火曜日の、まだ見れるすっぴんが、鏡の中で仏頂面を下げている。アイラインがよれてパンダみたいに黒ずんだ目元を見ていると、寂しさが溢れてきた。

今日の仕事は終わっても仕事は延々山積みだし、お皿を洗っても洗濯機を回してもまた次のを洗わなくてはならない。なんて不毛な繰り返しなのだろう。褒めてくれる人もいない、友達とももう大分あってないし、彼氏も長いことご無沙汰だ。

必要以上に喋らないせいで、最近の私はつまらない人間になってしまったようだ。今日一番に私が口に出した言葉? 「すみません」だ。電車に乗るとき、人ごみを掻き分けて吊革につかまろうとしたときの。じろりと一瞥をくれた目が思い起こされる。「おはよう」ではなく「すみません」で始まる一日。こういう陰鬱で面白味もない日々を繰り返している凝り固まった思考は、私の破滅を予感している。どうにかしなきゃいけないとは思ったけれど、どうすればいいのかがまたわからなかった。わからないことだけがわかる。

虚空を見詰めていた視線を鏡に戻すと、悪魔がいた。ぞっとして無理やりに口角を上げると、瘦せた笑顔で悪魔は笑っている。

唐突に、馬鹿なことがしたい、と思った。

 

馬鹿なこと。

蟻の行列を見つけて、しゃがみこんでついていく。行列が吸い込まれてゆく小さな穴のところまでたどり着く。塩と砂糖を持ってきて、巣穴の近くに堆く積む。ずっと眺めていると、白い双丘のうち一つの周りにだけまあるい砂の輪っかができている。誰も寄り付かない方の山を舐めて、私はこう叫ぶ。

「しょっぱい!」

雨が降ってきたらその塩をナメクジにかけてやる。一等でっかいのに少しずつ。どんどんナメクジは小さくなっていく。もともと鈍いのに、さらに鈍さを増しながら、溶けていく。コンクリートの壁に粘液がひたひたと光っている。動かなくなるころには私も飽きているから、空を見上げて、

「この雨は宇宙から降っているんだなあ」

等とぼやいてみる。すると雲が晴れて、陽が射して、それでも雨粒は私に降り注いでいて

キツネの嫁入りだあ」

白無垢を着たキツネとそのご一行が、虹の上をしゃなりしゃなり歩いてゆく。それを見ていると私ももう堪らなくなって、落ちてくる雨粒を一つ一つ拾い集めては、虹に翳して染め抜いた。プリズム色した滴は、埃の味がする。しとしとしたオブラートに包まれた水玉は、さっきのナメクジみたいに粘っている。もう服なんて取っ払っちゃって、色とりどりの水玉を、手当たり次第体に張り付けてやった。髪を振り乱して、往来に出てやると、皆ぎょっとしてこちらを凝視して、視てはいけないものを見るように目をそらした。

さすがに素ッ裸は肌寒くてくしゃみが出る。通りでティッシュ配りのお兄さんがいたので、そこまで歩いて行って

「どうよ」

と仁王立ちして見せた。大学生のバイトらしい彼はひきつった笑顔で後ずさりする。えい、と距離をつめて再度、挑戦的に微笑んでみせると

「鼻水出てますよ」

と自分だって鼻の下伸ばしながらティッシュを渡してくれる。

 私はそのティッシュで鼻をかんだ。ついでに一口食んでみると甘かった。ティッシュのごみを持て余していると、ご親切にもどこかの誰かさんが警察に通報してくれたようで、「そこの君、署までご同行願います」と腕をひかれる。ちょうどいいやと思って「ポリスメーン」と警官の手に鼻水ティッシュを押し付けた。手のひらの塵を呆然と見つめる警官はかんかんになって、よくわからないことを怒鳴ってくるから、私は走って公園に逃げた。

 公園の滑り台を逆さに登って、ぶらんこに乗る。昔っぽく言うと、ふららこ。ふららこってなんだよ。私はすこぶるいい気分で、空中を漕いだ。ぐんぐん高度があがって行って、このままだと鎖がちぎれちゃうってとこまで来た。なんて青い青空だろう。私は波のように、空に近づいては離れ、離れては近づいてを繰り返す。下を向くと砂場があった。ふららこを下りて、砂場に入った。裸足の指の間に、砂粒が引っ付いてくすぐったい。

傍に居たお子ちゃまからスコップを奪う。泣くこともせず、子供はきょとんとして水玉だらけの裸を興味津々に見つめてくる。そう、まるでサバンナの生き物を見るかのように。もしくは面白い形の雲を見つけたときみたいに。

私は構わず、砂場を掘り始める。

「お姉ちゃん、どこまで掘るん? 僕な、この砂場の下のコンクリートまで掘ったことあるんよ」

自慢げに砂場を指さして胸を張るお子ちゃまを、けっと鼻であしらう。

「私なんか、マグマが出るまで掘ったるわ」

 渇いた土はやがて湿った土に変わり、それでも私は三日三晩かかってついにマグマに到達した。気づいたら子供も大人も、輪になって私を見守っている。真っ赤な溶岩がどろりと流れ出てきた。土を焼き、遊具を焼き、風景を呑みこみながらマグマは公園を満たす。人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、私はそれを見て高笑いする。マグマの道をまっすぐ歩いてゆく。火傷するように体中が痛くなって、髪は熱風に巻き上げられる。構わず歩いていると、海に出た。見渡す限りの海。海岸に打ち上げられたクラゲのように、なすすべもなく立ち尽くす。

地球を貫通して、裏側に出たのだろうか。

背筋に震えが走って、振り返ると、悪魔がいた。

「ここはどこ」

聞いておきながら、どこでもいいと思った。

つまりはテイストだと悪魔は言った。

「見たい奴にだけ見える特別。何も考えてない素晴らしさってこと」

素晴らしさという割に、何も考えていないという言葉の危うさ。その果てのない空間に眩暈がする。

「今日のテイストがこれってだけ。明日のテイストはまた違うし、昨日のテイストは昨日だけのもの」

私は知っている。太陽が昇るから私は目覚める。闇があたりを包むから、私は眠るのだと。粒子が動くから時間があって、日々が動くから今があって、だから何かを考えずにはいられない。搖動する永遠の刹那の中で、私は生きるしかない。

メイクを完ぺきに落とした私は、思い直してシャワーだけ浴びることにした。頭を泡立てつつ、浴室の鏡に映る体をおそるおそる観察する。どこにも水玉はなかった。

翌朝、仕事に行こうと玄関から出ると、、マンションの目の前の塀に、茶色く干からびたものがべったり張り付いていた。薄気味悪くおどろおどろしげなそれは、苦悶の表情でミイラになっている。きっと、夢の中で私に塩をかけられたナメクジに違いなかった。これが今日のテイストね、と私は靴の裏でナメクジを剥がす。ぼろぼろと欠片になって落ちた。