暁の頃には地球を出ます

 明日の朝にはもう出発します。

時計の針が二十三時すぎを指しています。今はまだ今日ですから、あなたがこれを読むのが明日であっても、ここでの基準は「今日」です。

明日の朝、あなたが枕から顔を起こして、カーテンを開けて、眩しさに目を細める。その瞬間の表情を、私は見られません。あなたもそうです。私におはようができないのです。実際、そうでしょう?歯磨きと洗顔はきちんとして、朝ごはんもしっかり食べてくださいね。用意しておきましたから。  

挨拶もなしにいきなりのことで悪いとは思いますが、これを書いただけましと思ってください。

 それだけ残して家を出た。

東の山が欠伸をするのと同時に靴を履き、朝焼けが始まる瞬間に玄関の外へ足を置いた。そこからどんどん歩いて行った。ありったけの夢、ではなく、ありったけの金目の物をくすねてきたから、懐は温かい。夢の方は、なけなしの夢しか持ち合わせていないので、心はやや寂しい。

まだ薄暗いうちだというのに、ウォーキングに励むご老人や、新聞配達の自転車、仕事へ向かう車なんかとすれ違う。冷たい朝の空気、寝起きの静けさを裂いて、一日が動き始めている。私はそう思った。夜になって動きの鈍った歯車に、太陽という油が射される。そして私もきっと、歯車の一部だった。

 私は駅に向かっていた。駅前の商店街に差し掛かる。やかましい細い声が、おはようと叫んでいた。時計塔の時計盤のふちに、小鳥が三匹ほど止まっている。私が近づくと、挨拶もそこそこに、全部どこかへ飛んで行った。

 「おはよう」

 振り返ると、箒を持った老人が、私に微笑んでいた。まったく、年寄りは早起きが過ぎる。生き急いでいる風もなし、では死に急いでいるのだろうか。

「おはようございます」

「お嬢ちゃん、旅行かい?随分と大きな荷物だ」

「まあ、そのようなものです」

もうお嬢ちゃんと呼ばれる歳でもないのに。長く生きる人からは、おばさんもお姉さんもお嬢さんも同じなのだろうか。すると違うところは、美人かブスか。世の中とは非情なものである。

老人の後ろには看板がかかっていた。どうやら古書店のようだ。店先には雑誌や文庫本、年代物のおもちゃやガラクタみたいな壺や絵が所狭しと飾ってある。個人のコレクションにも見える。売りたいのか売りたくないのかわからない陳列だ。

店を覗き込んでいると、老人が笑みを深くして、扉を開けてくれた。

「見ていきますか?」

「いいんですか。開店時間はまだ……」

「大丈夫大丈夫。いつでも開いてるようなモンだから」

老人の後に続いて店内に入る。ツンと、古い紙の匂いが鼻につく。床に積み上げられた本の山、天井まで届く本棚。通路を構成するのも本であれば、壁を作っているのも本である。

大まかなジャンルに分けられ、さらに細かく出版社、著作者別に整列する本。表紙、ページ、活字、それらすべてがこの空間を構成している。この古本屋がひとつの生き物だとしたら、本は年季の入った細胞だ。私はその体に入り込んだ菌だった。文字と紙と、そこに込められた人間たちの結晶。朝食代わりにするには重い。

「旅行のお供にいかがです」

「では、お供を探してきます」

本の山に入る。いま地震が来たら死ぬな、と思った。本に潰されてお陀仏。苦しいのだろうか。

  旅行といっても、私は当分、家に帰るつもりはなかった。しばらくは気分のままに、適当に電車に乗って、新幹線に乗って、飛行機に乗って、適当な場所に行くのだ。それがどこかは知らない。旅行であり、家出である。家出であり、脱出であった。

荷物が増えてはいけないから、文庫本だけに絞って選んだ。レジへ向かうと、老人が模型を磨いていた。古びた布から見え隠れするのは、電車である。少し色の褪せたジオラマ模型は、片手で掴める大きさで、まるで子供のおもちゃみたいだった。乗客もいなければ、運転手もいない。四角いカウンターに、レールが敷かれている。レジの右側から始まって、お客側を通って、本棚へ移行、後ろの棚へ。そこから出入り用の開閉版の上、を通って、レジの左側へ。   老人は、模型のレールにぐるりと囲まれるようにして、その輪っかの中央に座っていた。

皺だらけでシミの浮いた手が、青い車体が横たえた。

「これねえ、寝台特急鉄道模型。ほら、そこの駅にも停まるやつ」

「ああ、『はやかぜ』ですか」

「ふむ、そんな名前だったかね」

 節くれだって使い込まれた指が、電源装置のレバーを引いた。途端に力んだ電車が、息をするように唸る。ゆっくりと車輪を回して、徐々に速度を上げてゆく。レールに沿って、つなぎ目をくねらせる。橋の上で、汽笛を響かせる。軋むほど静謐な動きは私を安心させ、痛々しいほど小さな車体は私に万能感を与える。気づけば私の手は勝手に拍手していた。

鉄道模型、お好きなんですか」

「これはNゲージという標準的なサイズで、ネットでも出回っとる。マニアが目の色変えて大金を注ぎ込むような、そんな価値のある模型じゃあ、ございやせんよぅ」

同じコースを当てもなく回り続ける列車に、憐れむような視線が投げられる。しかしすぐに悪戯っぽい微笑みが広がって、口元の皺を深くした。

「でもな、うちの『はやかぜ』は違う」

 身を乗り出した私に、老人は少年のような瞳を輝かせた。

 「切符は少々値が張るが、乗ってみるかい? 」

  

 

 列車は午前六時発。停車駅はそのときそれぞれで、降りたい時に降りられるし、乗りたい時に乗れる。指定席の寝台つき、トイレも車内販売もある。駅はさまざまで、「備中高松駅」の次が「Grand Central Station」であることもあれば、駅は「無名」としか表示されていないということもあるらしい。あてはなく、果てもない。終点まで行って帰ってきた人がいないから、最後の駅がどこなのかは本人にしか知りようがない。と老人は説明した。

 「気に入ったなら、この鉄道模型を買うといい。車内販売で売ってるから」

 本を入れた白いビニールの袋と一緒に、切符を渡された。レジの奥のドアから出るよう促される。

「ありがとうございました」

「いってらっしゃい。またおいでね」

 ドアを開け店を出る。湿った裏通りを想像していた私は、思わず声を上げた。

 そこは駅のホームだった。電光掲示板を見上げると、六時出発の文字が点滅している。腕時計を見た。五時五十八分。急いで青い車体を探す。開閉ボタンを押して飛び乗った瞬間、アナウンスが流れた。

『六時発、寝台列車「はやかぜ」、まもなく発車致します。えーこの列車は○○駅を出発し、そこから適当な駅に留まります。列車の気分しだい、終点はございません』

電車はすぐに動き始めた。酷い揺れだった。席に荷物を置いて、私はすぐに寝台に横になった。ここまで乗り物酔いするのは、子供のころ以来だ。

電車はまるで、胎動するように動いている。その度にお腹の底が収縮して、胃液がぐっちゃぐっちゃと波になっている気がした。目を瞑って、酔った腹を撫でる。そうしていると、指と腹の境目がなくなった。肘のところまでずぶずぶと、臍のあたりに沈んでいく。細胞の壁が消えるのがわかる。私はついに、卵の黄身みたいな、一個の細胞になってしまった。

まるでゼリーのような体のくせして、眠気が襲ってくる。早起きしたのだ、少しくらい寝てもいい。

どろどろのぐずぐずに溶けてしまった私をシェイクしながら、列車は軋む。ミルクを振り続ければバターになる。起きた時には、新しい私がいるだろう。

 

 目を覚ますと、私は黄身でもゼリーでもバターでもなかった。窓の外を見ると、景色がすごい速さで流れていくから驚いた。人の気配を感じて、隣の寝台を伺う。鼈甲の眼鏡をかけた女性が、こちらを見ている。

「おはよう」

「おはようございます」

妙齢のその人は、親切にも、

「今ね、ごめんなさい駅に停まって、走り出したところ。次はありがとう駅ですって」

と教えてくれた。寝起きの目をこすりながら、私は「はあ、そうですか」と気の抜けた返事をした。   

失礼だったと慌てて居住まいを正し、髪を手櫛で撫でつける。振り子のような列車が、がごんと揺れてリュックが倒れる。

「優しい名前の駅ですね」

「そうでしょ」

そう微笑んで、おばさんは勝手に話を始める。

他にもね、いろんな駅があったのよ。私が乗った駅は……あれ?どこだったっけ、まあいいわ、また思い出すでしょ。「人生における青春」駅とか、「一攫千金」駅とか。「ローファーの靴底」駅、「愛憎」駅、「Calorie Off」 Station、「相対性理論」駅……「駅名募集中」なんてのもあったわ。「私が気に入ったのはね、「トマトのヘタのふち」駅。ホームの天井が丸くて、一個のトマトみたいになってるの。トマト柄の電車もみたわ。

私ね、駅の清掃員さんを見るとほっとするの。決まった時間に決まった場所を掃除してるの。電車が停まる数分間で、車内の塵をさらう。乗客が吐いたため息を拭いてゆく。ホワイトとミントグリーンの制服。サンタクロースみたいな白い大きな袋。青い手袋、くたっと柔らかなモップ。ちりとりあるでしょ、あれにはね、名前が書いてあるの。清掃員さんひとりひとりに、それぞれ用意されてるのね。

通行人の隙間をぬって床を磨いて、トイレも、エレベーターも、人が見てないところまで。電車が出ていくときにはお辞儀までするのよ。すごいと思うわ。あたしも最初は、仕事だものね、と思っていたのだけれど、きっとあの人たちの心はどんなにか綺麗でしょう。

想像では、地下に大きな秘密の部屋があって、そこが清掃員さんの休憩所なの。全員が入るには狭くて、窓もないから薄暗いんだけど、不思議と整っている。淡々と働く姿は螺子巻き人形みたいだわね。本当によく働くなあと感心しながらあたし、電車に乗るの。

私はそこまで聞いて、よく喋るなあと感心しながら、倒れていたリュックを起こそうとした。よいしょ、と体をかがめる。ふいに目の前の左手の薬指が光る。

シンプルな銀のリング。しっとりとした手にそれはよくなじんでいて、私は思わず目を細める。

 私の視線を辿ったおばさんがはにかんだ。

「つい先月結婚したのよ。式は挙げなかったけど、これでじゅうぶん」

「それは、おめでとうございます」

何日か前の憂鬱を思い出した。

あの人は私に「生まれ変わっても君を選ぶよ」と言って優しそうに微笑んだ。普段は気が弱いくせに、こういうときだけ傲慢だから、私はそれが嫌いだった。なぜだか、妙に苛ついた。勝手に口が動いていた。

例えば、だけど、ね。例えば、だよ。「あなた」が蟻に生まれ変わって家に入ってきたら私は迷いなく「あなた」の腹を潰して、よたよた腹を引きずって歩くあなたを眺めて暇を潰す。それでコップのお茶をすこしずつ「あなた」に注ぐ。海に溺れる「あなた」に飽きたら頭もぷちっと潰す。生まれ変わった「あなた」に私は気づかない。それでも来てくれるの? と。「必ず迎えに行くよ」と貫き通してくれたなら、まだ我慢できたかもしれない。しかしあの人は、「さっきのはモノのたとえ。言葉の綾だよ。生まれ変わりだなんて、そんなの本気にしてるの? 」呆れたように微笑んで、弱い生き物を見る目で私を見た。

「結婚するとき、離婚することとかは考えないんですか」

我ながらなんて失礼なのだろう。おばさんは気にした風もなく、

「始まりほど終わりを思わせるものはないでしょう。でも、今のところは……多分、ずっと一緒にいるような気がする」

と窓に手を這わせた。

「あなたはどうなの? 」

朗らかな口調からは、さほど興味もなく、ただなんとなく聞いただけなのだとうかがえる。私はじいっと、カーテンのマーブル模様を指でなぞった。窓に額をくっつけて、下を見る。流れていく茶色のレールは、チョコレートフォンデュみたいにつるつるしている。おばさんは同じように額をくっつけて、反対に上を見上げる。舌が縺れそうなほどゆっくりと、私に問うた。

「恋は? 」

「解りません」

「愛は? 」

「嫌いですが解る気はします」

彼女は額を、流れる景色からはがす。鼈甲の色が陽に照らされて、美しい。眼鏡をかけている彼女も美しい。

「まだ出逢ってないのね」

ふ、と零れた笑みの端が流れて、車窓に溶けて往った。そうか、私はまだ出逢っていないのか。妙に納得してしまう。また、がたんと車体が揺れる。

そのとき、後ろから若い男の声が私に呼びかけた。

「切符を拝見」

一瞬、切符を失くしたかと焦った。ポケットを探ると尖った角が指にあたる。ほっとした。薄いオレンジの台紙で作られた切符。おとなしく差し出すと、紺の帽子を被った駅員さんが、ぱちりと切符を切った。

「ご乗車ありがとうございます」

手元に帰ってきた切符は、端っこの真ん中にまあるい穴が開いている。その丸を指で撫でる。丸の大きさだけ除く、指の腹。指紋が渦を巻いている。切符をひっくり返すと、裏面の黒地に、私の模様がくっきり映っていた。

「ビールにお茶~、名物饅頭、ご当地駅弁はいかがですか~」

振り返ると、添乗員の制服を着た若い女性が、カートを押してこちらに歩いてくるところだった。ひっつめにまとめた黒髪、化粧で白い肌、ぱちりと聡明そうな瞳。眩しさに思わず目を細めた。すみません、と呼びとめる。

鉄道模型ありますか」

寝台列車『はやかぜ』の模型ですね。こちら限定品となり少々お高いですが……」

「結構です」

私は鞄に手を伸ばした。

「おいくらですか」

「―――になります」

上手く聞き取れない。もう一度聞いた。

「―――になります」

 どうやら別の国の、あるいは別の世界の単位らしかった。諭吉さんを出したけど、添乗員さんはただ微笑むだけで受け取ってくれない。私は困って、財布を片手に固まる。日本のお金じゃ買えないんだろうか。カードならいけるかも。どうしよう、払えないくらい高かったら。

 おばさんも添乗員さんも、にこにこと微笑んだまま私を見守っている。せっかくの旅なのに、今更、値段を聞き直すのも野暮だ。この際、出し惜しみなどするまい。長年使ってぼろぼろの財布を、鞄に戻した。

代わりに、網棚に置いていたキャリーバックを降ろす。ダイヤルを回して、鍵を開ける。ファスナーを降ろすと、ジジジ、と小さな抵抗が音を立てた。

「これで足りますかね」

中には、あの人からもらったプレゼントだったものが入っていた。あの人は私に、指輪だとかネックレスだとかピアスだとかをよく与えた。

「自分の選んだものが好きな人を彩るなんて、素敵じゃないか。ましてピアスなんてどうだ。柔な耳たぶ、その肉に、僕のあげた金属が、僕の想いが刺さるんだ。考えただけでたまらないね」

わからなくもない。あれはきっと、一種の束縛だった。

宝石類なら、その価値はどこでも共通なのではないか。私の思惑はどんぴしゃだった。添乗員さんは頷いて、金銀の鎖、ぴかり光る宝石を私から受け取った。惜しい気もしたが、今の私にはどれも必要のないものだ。

添乗員さんが箱を渡してくれた。透明なケースのなかには、青い電車が閉じ込められている。神妙にそれを受け取った私は、恐る恐る抱き締めてみた。ぶわりと肌が、泡立つ。

「お買い上げありがとうございました」

同時に列車が止まった。少し長く停車するという内容のアナウンスが流れる。ここらへんで降りよう。

隣の席のおばさんにお礼を言う。彼女は朗らかな笑みとともに、手を振ってくれた。

青い電車の模型を持った私は、模型にそっくりな電車から降りた。

瞬間、頬に風が吹き付けた。車内の暖房で温められた肌に、外の空気はあまりに冷たすぎる。

ホームには人が少なかった。みんな、輪郭がぼやけている。ここはそういう駅のようだった。

輪郭を保てない、というのは、自分があやふやな存在になるのと同義だ。「何ものでもない自分」。背筋に震えが走った。世界と溶け合ってしまって、自由でもある気がする。

私はそこで、見つけてしまった。

陰気くさいホームの中、一部だけに輪郭があるのだ。ダストボックスのところに、清掃員さんがいる。輪郭、というか、全身に光が漲っている。特大のゴミ袋を広げる腕は、しっかりと意思を持っている。

私は自分の手のひらを見た。ぼんやりしている。きっと輪郭など初めからなかったのだ。

キャリーバックを引きずりながら、清掃員さんの横を通り過ぎようとする。目があって、会釈された。見返りなど考えていない瞳。ただ人が通ったから、彼は挨拶したのだ。

私も会釈を返す。息が苦しくなって、そうするしかできなかったのだ。はじめて、確かなものを見た気がした。私は、なるべくそうっとため息を吐いて、黄色い線を辿る。地面には塵ひとつ落ちてはいない。点字ブロックの凹凸が、靴底越しに感じられた。

伏せた目を開ける。まつ毛が重い。「まだ何ものでもない」私の目に、暁の空が飛びこんできた。