処女作

 

おひさまのまんまるのおしりが、西の山とあいさつをしたころでした。

びんちゃんは目を覚ましました。そこはひろいお庭のようでした。花壇からは溢れんばかりに色とりどりの花が咲き誇り、芝生は青々と刈りそろえられ、ずっしりとして丈夫そうな幹をたどると、枝葉はさわやかに風を迎えていました。地面で息をひそめるれんがの石畳は、ひとつずつ僅かに色味が違っていて、チョコレートの詰め合わせみたいね、とびんちゃんは思いました。それらすべてを、西の空に傾く太陽が、夕焼け色に染め上げはじめていました。

びんちゃんはきょろきょろあたりを見回します。いつもいっしょにあそんでいるチカちゃんがいません。きっとわたしを驚かせようとどこかに隠れているんだわ。

「素敵なお庭ね」

びんちゃんはすっくと立ち上がり、赤と白のギンガムチェックのワンピースをはたいて意気揚々と歩き出しました。

「ちいさなあなた。そう、そこで飛び跳ねている可愛いあなたよ」

話しかけてきたのは、オレンジのポピーでした。

「わたし、びんちゃんよ。元気で綺麗なポピーさん」

「そう、あたしったら、綺麗なの」

スキップをしながら進んでいたびんちゃんは、そのオレンジのポピーを摘もうと手を伸ばしました。ポピーを髪飾りにしたら可愛いと思ったのです。けれども、ポピーの茎はなかなかに丈夫で、ちぎれません。「きゃあ、やめてよ」悲痛な声にも構わず、えいっと腕にちからをこめると、ポピーは根っこから引っこ抜けてしまいました。

「何をするのよ。あたし、今朝やっと花を開いたばっかりなのよ」

びんちゃんの手に握られたポピーの、紙細工のように薄い花弁のうち、二枚は地面に落ちていました。

「まだちょうちょさんにも美しいねって褒められてないのに。ひどい、あんまりだわ」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

恨みがましくひたひたとにらみつけてくる視線に、びんちゃんはこわくなってポピーをもといた場所に戻しました。土をかけてやると、すっかり無残な姿になったポピーがぐでんと頭を垂れてそこにいました。びんちゃんはもうそのポピーを綺麗だとは思いませんでした。罪悪感でいっぱいになってもう一度誤ると、堰を切ったようにポピーの泣き叫ぶ声がびんちゃんの耳をつんざいて、彼女を責めました。

「もとの姿に戻してよ。ねぇ、戻して」

びんちゃんは耳を塞ぎ、ポピーに背を向けて逃げるように走りだしました。

 

 

 

 

 

一心不乱に駆けてきたびんちゃんは、いつのまにか小道の真ん中に立っていました。ここにもチカちゃんはいませんでした。ぜぇはぁする息を整えようと深呼吸をすると、少し離れたところに、錆びたスコップが落ちていました。チカちゃんが持っていたスコップと、よく似ていました。

「かわいそうにこのスコップ、さきっちょが欠けちゃって捨てられたのね」

「なんだよなんだよ。ちびのくせに」

「ちびじゃないわ。わたし、びんちゃんよ」

「聞いてくんろ、びんちゃん。おいらはな、錆びて使い物にならねぇってんで、相棒に捨てられちまったんだ。いいや、あんなやつ、相棒なんかじゃないやい」

かなしそうにさみしそうに、スコップは赤茶になった体でせいいっぱい強がりました。

「ひどいひとだったのね」

そう言ってスコップを持ち上げたびんちゃんでしたが、いやはやどうにも、彼はもう使い物になる気はしませんでした。

「土を掘る最中にゃおいらのことなんてすっかり忘れてるんだ。それでいい。でもな、あいつがもっと丁寧に手入れしてくれりゃ、おいらはもっと長持ちするはずだったんだ」

びんちゃんは、かける言葉もわからなくて、ただじっと話をきいていました。みーんみんみんみ、、、一匹だけ鳴いていた蝉の声が途切れました。ぽとんと地球に引っ張られて落ちたその蝉は、地上に出てちょうど七日目でした。小さいながらも立派な翅のその蝉は、もう死ぬのだ、いつ死ぬんだ、そろそろか、いやまだ宙を飛んでいたい、といつだって悩み、木にしがみつき、力の限り鳴いていました。あんまりみんみん鳴きすぎたので、とうとう胸がつまって、死んでしまったのです。スコップを持ち直したびんちゃんは、木の下に穴を掘りました。びんちゃんの拳がひとつ入るくらいの大きさでした。だらしなくおなかを見せた蝉を、びんちゃんはスコップにそっと乗せ、それから、穴の中に置いてあげました。土をかぶせて、スコップをそばに置いて、びんちゃんは風の音を聞いていました。

「ありがとよ、びんちゃん」

口をつぐんだスコップは、それきりもう何も喋りかけてはきませんでした。びんちゃんは、また歩き出しました。食べ物を探していた働き蟻たちはがっかりして、触覚をふりふり、列を組んで草の影をたどっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

ヤドリギの枝を右手に持って、びんちゃんが一生懸命歩いていると、きらきらとなにかが輝いてみえました。近づくにつれちいさな池が、上流から流れ込む澄んだ水を溜め込んでいるのがわかりました。びんちゃんは思わず走っていき、わぁいと歓声をあげて水中に両手を浸しました。両手をお皿にして、ひんやりとしたお水をすくいあげます。

「君、どうしてここにきたんだい」

聞いたこともないさらさらした声に驚いたびんちゃんは顔をあげて、声の主をさがしました。

「ここだよここ、君の手のなかを見てごらん」

言われた通り自分の手のなかにじいっと目を凝らしますが、ぬるくなった水がぽたぽた落ちていくだけでした。

「なにもいないじゃない」

また、あの声が聞こえました。今度はなにがおかしいのか、大笑いしています。

「あっはっは。まさか、本当に信じるなんて」

「なによ、あなたが言ったんでしょ。どこにいるの」

「池の中を、よぅくみたまえよ」

水面は太陽のひかりを反射して眩しく、底は泥がたまって澱んでいます。目を細めていると、いくつもの波は揺れて寄せて、びんちゃんの足元で順番に砕け散りました。

「ひどいわ、あなたはだれなの」

「ひどいのは君のほうさ。僕に気づいてくれないし、ポピーは引っこ抜いちゃうし」

びんちゃんは青ざめて言いました。

「なんで知ってるの」

「さあね。そんなのどうでもいいじゃないか」

おざなりな返事とともに、あしもとの水面がくるくると揺れ、ぼうっとちいさい影が浮かびました。ひよこの足を間違えて首元につけたようなかたちをしたそれは、びんちゃんにむかってみじかい手を振ってみせました。心臓がぴょんと飛び跳ねて、びんちゃんはきゃぁと叫びました。

「逃げないでよ。せっかく暇つぶしの相手ができたんだから」

「暇つぶしの相手なんかじゃないわ、わたしはびんちゃんよ。あなたはなんなの」

びんちゃんがむっとしながら言うと、影はびんちゃんの倍くらいむっとした様子で、おててをじたばたさせました。

「いま、僕を見て気味悪いと思っただろ」

影はくるんと寝返りをうちました。おなかとくっついた顔のまんなかには、黒いおめめととんがったくちびるがあるばかりでした。

「僕はミジンコだよ」

「うそ。ミジンコが喋るわけがないわ」

そう叫んでからびんちゃんは、ポピーやスコップも喋っていたことを思い出しました。それにそれに、ちいさいうえにぼんやりしていたのでわかりませんでしたが、なるほどたしかに、影の形は顕微鏡で見たミジンコそのものです。

「僕が喋っちゃおかしいかい」

「普段は喋るどころか、小さすぎて見えないもの」

「君たちが言葉を使うように、ミジンコだって言葉を操る。君たちが考えているように、僕ら微生物だって考えているんだ」

「知らなかったわ。人間のように喋ればいいのに」

「喋るのだけは上手いにんげんとは違うんだ。自分たちがこの世界でいちばん優れてると思いこんでいるにんげんとはね」

びんちゃんは首を振っていいえと笑顔で答えました。びんちゃんは、憧れているくらい、なぜだか人間が大好きでした。

「そんないいところばかりじゃないのが、素敵よ」

「そのいいところばかりじゃないので、迷惑をこうむってるのはぼくらなんだけどね」

ざわざわと震えたミジンコは、駄々を捏ねるようにおおげさに身を縮めてみせました。そしてえへんと咳払いをして、ふしぎそうに言いました。

「それはそうと、なんで君がこんなところにいるんだい」

いくら考えてもびんちゃんにはわかりません。ぐらり、びんちゃんは眩暈に襲われました。ゆらゆらゆらり、ぐんにゃりぐらぐら、ごととん……

 

がたん、ごとん、がたんごごとん。

つぎにびんちゃんが目を覚ましたとき、そこはまっくら闇の中でした。はて、ここはどこだろう。体を動かそうとしましたが、なぜだか、ぴくりとも動きません。こわくてしゃくりあげそうになったとき、まぶたがゆっくりと開きました。やけに長いまつげが、目に入ってじくじくしました。暗闇のすみっこには、ちいさな蜘蛛が、巣を張っていました。

「もし、蜘蛛さんここはどこかしら」

「ここかい?ここはトラックの荷台のなかだよ」

びんちゃんは、なんでそんなところにいるのだろうと首を傾げたかったのですが、やはり首も固まったようになっていて、動くことはできませんでした。ここに来るまで、とても素敵で楽しいことをしていたような覚えがあります。思い出そうともしましたが、靄がかかったように記憶はあいまいでした。つうっと、糸をのばして顔の前までやってきた蜘蛛さんが、なあがい足をちょんとあわせて、言いました。

「かわいそうにね、お人形さん」

「わたし、お人形さんなんかじゃないわ。びんちゃんよ」

ようやくそこでびんちゃんは、自分の声がいつもの透き通った鈴の声でないことに気づきました。ひどくかすれたおばあさんのような声は、トラックの音に、いまにも掻き消されそうでした。

やがて、トラックはがくんと揺れて止まりました。キィィと音を立てて、荷台の扉が開かれました。

おひさまのまんまるのあたまのてっぺんが、隠れてしまったころでした。